鶏の屠殺と食べることを考える

鶏の屠殺と食べることを考える

最近、全く滞っていたこのサイトの投稿。なんで滞っていたのかは、まあいろいろな理由があるのですが、冬だからということにしておいてください。

 

でももう1月も終わり、2月になれば、長い長い長すぎる北海道の冬もあと一ヶ月という感じ。やっとこ終わりが見えてきた。北海道の3月はまだまだ寒いですけどね。雪解けが始まるとやっぱりワクワクします。なので、僕もそろそろこの更新を始めようと思います。

さて、久々の更新はというと、いきなり重たい話をしようと思います。鶏の屠殺についてです。

 

昨年、春から僕の畑に新しいメンツが加わりました。最初は名前がなかった。必要があるときには単にニワトリと呼んでいました。「我輩は鶏である、名前はまだ無い。」状態だったわけです。

それがある日家族が「コッコちゃん」と呼んだことから、名前をつける予定のなかった家畜に名前が付けられました。

なんとも安易な名前です。黒い犬をクロ、白い犬をシロ、猫をタマと呼ぶぐらい安易な名前鶏のコッコちゃん。

でも名前は名前。

つけたら最後、

そう、

愛着が湧いちゃいます。

そりゃもうドビャドビャ湧きます。これが温泉なら僕は今頃湯処だろうし、石油だったなら僕は今頃億万長者となっていたでしょう。けど、湧いたのは愛着でした。

ちなみに生前に書いたのはこちら↓

鶏がいる日々

最初は畳一畳半ほどの僕お手製の鶏小屋の中だけだったのですが、全然逃げないし簡単に捕まえることができるということに気がついてからは、畑仕事のときは放し飼いにしました。

トマトを収穫するその隣に鶏がいて土を引っ掻いて柔らかくしてくれているわけです。

それは、もう、めちゃくちゃ楽しいわけです。

夕方にご飯をあげに行くついでに庭に放して、僕はぼうっとその様子を石にでも腰掛けて眺めて日にはもう、それはそれは幸せなわけです。

でも、コッコちゃんはもともと廃鶏になる鶏。齢3歳。卵用の鶏はこのぐらいの年齢になると廃鶏になります。つまりは処分されます。

なぜかというと単純で、あまり卵を産まなくなるからです。EGG or DEAD. コッコちゃんも最初はほぼ毎日卵を産んでいましたが、夏頃にはそれが3日に一回ほどになり、5日に一回ほどになり、とうとう全く産まなくなりました。

コッコちゃんが卵をだんだん産まなくなるだろうということは知ってはいたので、元々コッコちゃんを飼い始めたときにも冬には屠畜する予定でした。これまでにも屠畜の経験は何度かありました。去年は手伝わさせてもらって何羽もやったいました、だから今年もできるだろうと。

それに実際屠畜しました。

 

 

ここからはその時に思ったこと。

それは答えがないようなことなので、僕が正しいとも思えないのですが、あくまで今の僕はどう思ったのかというメモのために書き残しておこうと思います。

鶏の屠畜は大学や農業高校でも食育という形で行われることがあります。いつもスーパーで買う肉はもう肉になった状態だからこそ、その死を意識することはありません。でも自分で屠畜することで、肉は命を奪って食べているんだということを意識することができます。

卵用の鶏は屠畜して食べても硬く、とても美味しいと言えるものではないのですが、それでも自分で屠殺した肉を「まずい」ということはできないのは、やっぱりそこにある種の「重さ」があるからなのだと思います。

食べることは本来重たいことなのかもしれません。

今回の屠畜もそういうことを思うのは一緒でした。

でもやっぱり、言い方が悪いかもしれませんが、去年まで他の人の鶏を屠畜していた今までとは大きく勝手が違いました。

いつも抱えて畑に離していたその体を、屠殺するときは同じように抱えて首を落とします。室内でしたのですが、ああ、申し訳ないな。と思います。きっとどうせ死ぬなら青空の下で死にたいだろうに。と
思います。抱きかかえると、ああもうこの鶏は2度と地面を踏みしめることができないんだな。とも思います。

いつも僕に抱きかかえているから、信用して、抱かれても何もリアクションを取らないのに。首を抑え込むと、どうやら勝手が違うようだと、少し悶えます。その首にナイフを入れるとギャーッと叫びます。

それで屠殺は終わり。次はさばきます。

そうして鳥肉は出来上がります。

それで、今回ちょっと思ったことなのですが、

 

これ、僕がやらなくていいじゃん!!

歩いて10分ほどのマックスバリュに行けば鶏の肉は売っているわけじゃん。鳥肉を買うぐらいのお金はあるし、なのになんで目の前の鶏を殺さなくちゃいけないんだよ。と思いました。

「欲望の」「行き過ぎた」「成熟した」、枕詞はなんであれ「資本主義」の市場には溢れすぎるぐらいに鳥肉が溢れています。売れ残って夕方にスーパーに行けば半額で買うこともできる。そうした社会の中に属している僕が鶏を屠殺するというのは、エコロジカルでありたいという自分の欲望を満たすためのエンターテイメントにすぎないんじゃないかと、ちょっと思いました。

それは多分、僕がいつも鳥肉をスーパーで買い、この社会の中に普通に属しているから、それに大した思想も持っていないからそう思うのだろうと思います。

から、思想を持ってやっている人をどうこう言うつもりはありません。

今の鳥肉業界、つまりはブロイラーのあり方、抗生物質をエサに与えていると言うこと、ブラジルという地球の真裏から鳥肉が輸入されているということ、品種改良によって生まれてから数週間で過剰に肉をつけた個体を作り出しているということ。例えば、そういう産業に対するアンチテーゼとして、自分で育てた鶏の屠殺というのは意味が見出せることだとは思います。それにコッコちゃんだって僕が殺さなくてもだれかが殺していたわけです。

コッコちゃんは本来なら一昨年には廃棄されていた鶏です。それを余計に一年飼ったわけですから、そこに何かしらの意味は見いだせるのかもしれません。

とかなんとか、書いてしまうのは僕が家畜とペットを混同しているからかもしれません。

えーと、

なんだかまとまらなくなってきました。

 

ただあくまでメモ的に。ちょっと思ったことを雑記してみました。

 

今年は鶏、どうするか。本当に悩みます。

屠殺するのは辛いけど、畑に鶏がいる光景を見てしまうと、もう、あの光景を忘れられません。だからもう一度、今度はじゃあ天寿を全うさせるのか?

病気とかのリスクもあるし、果たしてそれが正しいということなのか。

食べることに関しては、何が正しくて何が正しくないのか本当にわかりません。考え出すときりがない。自分が信じたいことを信じて、だけどそれを半分くらいは疑ってみる。それがいい具合なのじゃないかとも思います。

 

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