ゆるゆる読書感想文2000字『コンビニ人間』村田沙耶香

ゆるゆる読書感想文2000字『コンビニ人間』村田沙耶香

 

ここ数年の文学界の中で、100年後も歴史に残る小説があるとしたらそれはもう間違いなくこれだと思います。メチャクチャ面白いです。もちろん純文学なのでエンターテイメントとして(例えば映画化したとして)面白いかというとあまり面白くはならなさそうです。が、面白い。どう面白いのかというと

小説として完璧な面白さ

だと思うのです。

映画やエンタメ小説とは違う純文学的な面白さです。

純文学には現代の社会を写す鏡のような役割があると思います。綿矢りさの『インストール』、『蹴りたい背中』があそこまでセンセーショナルだったのは2000年代初頭に女子高生がパソコンと思春期の微妙な性とをあそこまでの筆力で書いたからです。今、純文学が評価されないのは単純に昔よりもそうした役割で小説を書く作家が減ったからではないだろうかと思うのです。社会に対するというよりも、個人の内面的なものに評価が置かれすぎているような気がします。

まずはいつもの通り、あらすじは僕が語ることに意味がないので他サイトの引用で済ませます。

古倉恵子は三十半ばだが、正規の就職をせずに大学時代に始めたコンビニのアルバイトを続けている。

子供の頃から変わり者で、人間関係は希薄、恋愛経験も皆無。という半生を過ごした古倉。

大学時代、コンビニで仕事を始めたことをきっかけに「周囲の人たちの真似」をしたり、妹の助言を聞くことで、普通の人らしく振る舞う方法をようやく身につけた。という経験がある。

古倉はそのような経験を、これまで世間一般の人間の規格から外れていた自分が、初めて人間として誕生した瞬間と位置づけていた。 以来古倉は私生活でもそのほとんどを「コンビニでの仕事を円滑に行うため」という基準に従って過ごしつつ、なんとか常人を演じ続けてきた。 しかし、自身の加齢、及びそれによる新たな世代の人間との干渉が増えたことにより、 そのような生き方は徐々に限界に達しつつあった。

そんな時、古倉はかつての元バイト仲間の白羽という男と再会する。 白羽は、就労の動機を婚活だとうそぶき、常連の女性客につきまとい、挙げ句ストーカーまがいの行為を働いて店を解雇された過去を持っている。

ひょんなことから白羽と奇妙な同居生活を始めることになった古倉は、 その状況を周囲の者達に「同棲」と勝手に解釈され、囃し立てられ、若干の戸惑いを感じるも、 冷静にそんな彼らを観察し、白羽との関係を「便利なもの」と判断する。

やがて古倉は白羽の要求によりコンビニを辞めて就活を始めることになる。 しかし、面接に向かう途中でたまたま立ち寄ったコンビニで、自身の経験から図らずも店の窮地を救った彼女は、コンビニ店員こそが自分の唯一の生きる道であることを強く再認識し、就職との天秤にかけていた、白羽との関係を解消してコンビニに復職することを心に誓うのであった。

出典wikipedia

この小説の主人公は普通ではありません。自分は普通ではないことに気がついて、普通になろうとしてたどり着いたのがコンビニという空間。全てがマニュアル化され、マニュアル通りに行動すれば評価される世界です。

普通、コンビニで働く人間というのは量産可能な、ある種の底辺の仕事としてピックアップされることが多いと思います。バイトの時給一つとっても、都会ではコンビニの時給が一つの指標になります。社員やオーナーならまだしもアルバイトとしてずっと働き続ける(それも主婦のお金稼ぎではなく、大学生時代から30代半ばまで)場ではないと思います。コンビニバイトとはそれ自体が目的になることはなく、あくまでお金を稼ぐための手段である場合が他のバイトに比べても圧倒的に多いのではないでしょうか?カフェなら、あのカフェで働きたいからとか、そこにお金を稼ぐこと以外の要素が入ると思いますが、コンビニバイトはまずないはず。

でも、この小説の主人公はコンビニで働くことは手段ではなく、自分が普通であり続けるために必要な目的なのです。この僕たちは手段としてしか捉えていないものを、目的と感じているギャップにこの小説の面白さはあります。

周りに合わせた個性を持っている人の世界がある種の異常であって、人とは合わない個性を持ちながら、コンビニという不自然に綺麗すぎる空間にいる自分にだけ満足感を感じることができる幸福を描き出しています。トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭には「幸福の形はいつも同じだが、不幸の形はそれぞれ違う。」というとても有名な文章があります。が僕はこの文章が度々ピックアップされてはそれが正しいことであるように肯定されていることに僕は違和感がありました。

(それは一重に僕がこの文章の意味を理解していないだけかもしれませんが)幸福の形こそバラバラで不幸の形こそ同じなのだと思うのです。

この小説は、僕たちが当たり前だと思っている「幸福の形」と「不幸の形」を変えてくれるものだと思います。

幸福の形が他の人と同じような幸せであるのではなく、個人的な充足感を満たすことにあり、不幸の形が他人と同じような幸福を歩むことで個人的な充足感を他人と同じ暮らしの中でしか見出せないことなのだと気がつかされます。

 

でもふと立ち止まると、やはりこの小説の中で提示される幸福は不幸なのではないかとおも思いはじまます。

ぜひ読んで、この主人公は幸福なのか不幸なのかを考えてみてください。

 

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