「しっかり消費」と「ながら消費」
テレビを見るともなく見ていて思ったのだけれど、「消費」にも二つのパターンがある。
それを仮に「しっかり消費」と「なんとなく消費」とに分けて見る。
例えば、ネットフリックスやアマゾンプライムビデオ、Huluなどなど、気軽に大量の動画コンテンツを楽しめるストリーミングサービスが増えたけれど、これは「しっかり消費」。それに対してテレビは「なんとなく消費」が主だと思う。
昔はテレビを見る時に「この番組を見たい。」とか「この番組を見ておかなくては、明日学校で会話についていけなくなる。」といった感じで、断固として見なくてはいけない「理由」があった。僕の世代で言えば、小学校時代の「学校へ行こう」や「めちゃイケ」だ。
僕はこの二つともを見ていなかったから、リズムゲームやブンブンブブブンが流行った時にとっさに乗り遅れて、クラスの中で盛り上がっている遊びについていけなかった。
で、それではまずいと焦るから、見るようになった。
でも、今テレビをちゃんと見たいかというとそんなことはない。しっかりと見たいテレビ番組はほとんどない。でも、点けてしまったりする。それは昔からのクセだったり、音がないのがなんか少し寂しいからだったりする。
それはテレビ番組をしっかりと見ているというよりはなんとなく、他のことをしていても、なんとなく点けているといった感じだ。
それに対してネットフリックスなんかはとりあえず見に「行かなくては」いけない。テレビよりも能動的に取り組まなくては消費できない。
そのページに行って、見たいコンテンツを探して、実際にそれを視聴する。つまりは「しっかり消費」しているわけだ。
こうやって考えると「しっかり消費」と「なんとなく消費」は他のところにも色々とある。
食べ物も「しっかり消費」しようと思って行動することもある。生産者の顔の見れる食べ物を食べたいと思うし、なるべく体にいいもの、自然にいいものを食べたいと思う。だけれど、毎度毎度一日に三度も訪れる食事の時に、そういったものが手軽に手に入れることは難しい。
だから「なんとなく」コンビニで簡単な食べ物を買って済ませちゃったりする。
衣服も、悩みながら買った服は「しっかり消費」だけれど、なんとなく安売りの服を買ったりすることもある。
しっかり消費を消費者に促すことは大変だと思う。しっかり消費はお金がかかるし、どうしてもなんとなく消費に心が動きがちに消費者をしっかり消費してしまうにはそれなりのものを作っているのはもちろん、それを簡単にアクセスできるようにしていなくてはいけない。
僕はこれから、住宅街の中に加工場を作って、そこでできたものを少しでも販売したりして行きたいと思っている。もう少しで家の前の直売所も始める。それは「なんとなく」スーパーに行ってしまう、人たちにもっと簡単にいい食材にアクセスできるような環境を提供したいと思うからでもある。
いや、スーパーにも地域野菜のコーナーがあったり有機野菜が充実していたりする。でも、なんというか「なんとなくスーパーに買い物に行く」という心を変えることはできないかと思ったりする。