キューバ旅行記2013①
昨年フィディル・カストロさんが亡くなった。90歳だったということで、あんなに葉巻を吸っていたのによく長生きしたもんだと思う。ひょっとすると、強い自分を演出するために、葉巻の煙を吸わないで吐いていたのかもしれない。確かそんな話があった気がする。
でも、葉巻以前に、よく今まで殺されなかったなという人でもあるので、本人としても十分生きたのではないだろうか。
今生きている人で、カストロほど色濃く歴史のページに刻まれる人はいるだろうか?少なくとも世界史的にみても、歴史の巨人が亡くなったのは間違いない。
で、僕は何とその死を数年前から予感していた。と言ったところで別に予知能力があるということではない。単にカストロが高齢だったというだけだ。
唯一残された社会主義のユートピア的国だったキューバがカストロ亡き後はどんどんと自由市場が進んでいくのは間違いない、それに目をつけ「俺カストロが生きてた頃のキューバに行ったことあるんだぜ」と将来自慢するためだけに、大学生だった僕はキューバに行った。
手をあげてるのがカストロさん。左がTシャツでお馴染みのあの人。
で、そのフィディル・カストロさんが何をした人なのかと言うと、キューバ革命をした人だ。
漫画やアニメにはやたらと革命家じみた人が出てくるが、現実に革命家はいない。いないと思う。少なくとも僕は出会ったことはない。もしであったとしても、あまりその人とは関わらない方がいいような気がする。
でも、カストロは正真正銘の革命家だ。職業欄に「革命家」と書いても問題なくTUTAYAの会員証を発行してもらうことができるだろう。
なにをした革命家かと言うと、アメリカの傀儡国家に成り下がっていた、キューバのバチスタ政権へゲリラ戦を仕掛け、見事勝利。社会主義政権を打ち立てた。→キューバ革命をした人です。
文字で書いてみるとなんだか簡単そうだが、実際はそうではない。少なくともトランプゲームの大富豪で革命を起こすよりはだいぶ難しい。
カストロも実際、そう簡単には革命を成功させてはいない。
ここでザックリと革命までのカストロの人生を書くと、
比較的裕福な家庭に生まれハバナ大学にも進学。
法律を学びのちに弁護士になる。弁護士時代にバチスタ政権がクーデターによって成立、バチスタはフロリダでカジノを経営していたこともあり、アメリカ企業やらカジノでつながっていたマフィアやらをじゃんじゃかとキューバ国内に誘致し、キューバの農業や工業は事実上、搾取が行われるようになった。
そうなると、独裁政権でおっかないから抵抗できないけど、やっぱり民衆は不満を感じます。
で、カストロさんはそれまでにも民主的に立候補したりしたけど、なんや感やといちゃもんをつけられ、失敗していたこともあり軍事行動に出ます。
モンカダ襲撃と呼ばれるものです。お仲間130人と結成したものの80人以上が戦闘で死亡、カストロも逮捕され、失敗に終わります。
カストロさんのすごいところ、というか怖いところはこうなってもショボくれないところです。懲役15年を言い渡されていましたが、2年間で恩赦を受けて釈放、出てくるとすぐにメキシコに亡命します。
この亡命先のメキシコでも、バチスタ政権から手を回されて、逮捕されるのですが、なんとかまた釈放されます。ここら辺の詳しい経緯について書いていると大変なことになるので、興味がある方は調べてみてください。
簡単にいうと、カストロさん、運がいい。それもまたカリスマ性を構成する大事な要素ですね。
で、この後、いざ革命。というわけで82名の同志とともに、グランマ号と名付けたボートでキューバに上陸。ゲリラ戦を展開します。
でも、上陸してすぐに激しい攻撃にあい、生き残ったのは18人。この中には後に遠く離れた日本の地でティシャツにプリントされることになるチェゲバラもいます。ちなみに、キューバでもプリントされて大量にお土産として売っています。
18人になってしまいましたが、諦めません。キューバ国内にはバチスタ政権に不満を抱えている人たちもたくさんおり、そうした人が、カストロたちを支援します。農園で隠れる場所や食料を提供されたり、実際に仲間となってゲリラ戦を戦ったり。結果的には800名以上が新たに加わります。
そうして、な、な、なんと最初は82人という、小学校の1学年ほどの人数しかいなかった革命側が勝ってしまいます。
そしてカストロの政権樹立。
その様子はこの映画に書かれています。
面白いです。
カストロは元々社会主義者だったというわけではなく、当時キューバに渦巻いていたアメリカへの嫌悪感から、アメリカ以外に世界の中心だった国=ソ連へと近づき、だんだんと社会主義化していきます。
ちなみに、この頃ゲバラさんはというと、人間を一歩前進させようと、欲望で動くのではなく、人間的モラルで生きる人のための国家を作ろうとします。が、失敗します。
なかなか理想通りとはいかないものですね。ゲバラさんはこの後も世界各地で反政府のゲリラ戦を主導しますが最後にはボリビアで殺害されてしまいます。
ちなみにゲバラさんもお医者ですし、家も比較的裕福。このころの革命家や、そう行った運動に参加する人は「比較的裕福な家庭で育った」というのが割と共通する点です。それは大学進学率が少なかった当時は、そういった層の中にエリート意識が今よりも濃かったからだと言われています。が、それを書くと話が逸れてしまいます。
こんな感じでざっと歴史です。
一応書いておきますが、僕は全く社会主義者でもなんでもありません。カストロを賞賛しているわけでもありません。なんせ人大量に殺していますからね。
実際にキューバに行ってみても、旅行する分には、日本と違うことだらけだし、面白いけれど、住みたいとは全く思いません。カストロはよその国から見てる分にはいいけど、実際に自分の国の支配者にはなって欲しくない。
そんな人だと僕は思いました(あくまで1日本人の1個人の意見です)
そして、大学生の頃、伝記や映画、それにキューバでの有機農業の本を読んで頭がキューバ一色になったところで、一人でキューバに行きました。
今、カストロが亡くなったのをきっかけにキューバの写真をみたら懐かしくなったので、その時のことをつらつらと書いていこうと思ったわけです。
そう、ついに「俺、カストロが生きてる頃のキューバに行ったことあるんだぜ」という自慢ができる時がきたのです。
さて、出発前夜。
何をしていたかというと公開して間もない『風立ちぬ』をみていました。
キューバに行ったのは三週間ほど。帰ってきてからも公開しているのだけれど、それまで一人では海外に行ったことのなかった、海外一人旅童貞、チェリーボーイバックパッカー、略してチェリパッカーの僕は死に行くぐらいビビってので、死ぬ前に駿の最後の作品をみておこうと思ったわけです。
でも、実際はキューバもクレイジーな所はあったけれど、比較的治安も安全と言われているし、何もゴリゴリの発展途上国の少数民族に会いに行くわけではないので、あそこまでビビらなくてよかった。ただ、根が圧倒的ビビりなので、その時もビビりにビビりまくっていた。
なんと行っても入国審査が怖い。
なんども中川家礼二の
を見て頭の中にイメージを膨らませていた。(55秒あたりから)
で、これが後々本当に役に立つので、チェリパッカーの方は参考にして見てください。
にしても、なんで税関の人は笑わないんだろう。僕が全力で笑顔を作っても笑わない。つられても笑わない。なんとしてでも笑わない。笑わない訓練とかしてるのだろうか。
さて、まだ出発しません。その時札幌に帰省していたので、札幌にいた。まずは札幌から東京に戻らなくては。
ここで一つハプニング。
学生は飛行機に学割で乗ることができるので、特に混んでいる時期以外は予約をしなくても、安くチケットを買うことができる、。の時も九月のオフシーズンだからいつでも乗れると斜に構えていると、まさかまさかの「水曜どうでしょう祭り」。
僕が札幌を出る日が、ちょうど、水曜どうでしょう祭りの最終日。本州に住むどうでしょうファンが大勢帰宅の途につくということで、飛行機も満員、ちなみにいうとホテルも満室で、嵐特需ならぬどうでしょう特需だった。
でも、そんなことを全く知らなかった僕は余裕こいて、出発前日にチケットを確認すると羽田行きはぜーーーーんぶ、満席。冷や汗かいた。
学生の頃、羽田からなら1時間ちょっとのところに住んでいたので、これはピンチ。
結局、なんとか手に入れた成田行きのチケットで一旦成田へ行き、そこから東京の自分の住まいまで戻り、翌日また成田に行くという、なんともよく分からない展開に。
成田空港へは、貧乏チェリーパッカーの僕は少しでも、お金を節約しようと普通列車を乗り継いでトロトロと行った。
初めての一人海外に緊張し、そのせいで国内の移動を舐めきっていた結果、成田空港に行かなくてはいけないのに成田に着くと言う凡ミスをしでかした。
しかも成田から成田空港に行く汽車は30分以上こない。調べてみると、時間に余裕を持って家を出たと言うのに、チェックイン時刻ギリギリに成田空港に到着する予定になってしまった。
これは外国人観光客ではたまにあることらしい。皆さんもお気をつけて。成田は成田空港ではありません。
知り合いに赤羽橋で待ち合わせをしたのに、赤羽に行ったという伝説を作った人がいます。。東京タワーに行くつもりが、まさかの東京北区赤羽です。僕はというと、成田と成田空港は赤羽橋と赤羽よりは近いので何とかなりました。
ちなみに何を思ったか、成田で小学生を撮っていました。小学生で制服着ているのが珍しくて、撮ったような気がします。国際空港が近くにあるんて信じられないぐらいのどか。
たどり着いた、空港ではYOUは何しに日本への取材を見つけてワクワクした。
ちなみに僕は取材を受けることはなかった。それどころか目すら合わせてくれなかった。なぜだ。
この写真もそうだけど、チェックインカウンターが閉まる時間まで結構ギリギリだったので、走りに走っていた。
で、なんとか搭乗成功。
17:05発のトロント行き。トロントで乗り換えてハバナだ。
キューバは当時、アメリカと国交を回復していなかったので、アメリカから直接キューバに行くことはできない、日本から行く場合は、メキシコ経由かトロント経由。で、どちらかと言うとトロント経由がメジャーらしい。
トロントのトランジットは初トランジットの僕にもわかりやすい。
難なくできてホッとした。トロントからは多少飛行機の遅れがあったものの、無事に飛んでハバナに向かう。
トロントからハバナということで、アメリカ合衆国の東海岸を縦断するわけなんですが、これがもうめちゃくちゃ綺麗。夜のフライトなのでずーーーーーーっと夜景が綺麗。なかなかこんなに綺麗なフライトは後にも先にも出会ったことがないかもしれないというぐらい綺麗だった。
わからないけれどフロリダ半島の先端あたり、だからマイアミ?らへんが特に綺麗で、この景色が本当の百万ドルの夜景なら、函館の夜景は3千円のホームセンターで売ってる電飾ぐらいだなと思った。(実際には函館見たことないです。御免なさい。)
ちなみに、貧乏チェリーパッカーだった僕は、飛行機の中で携帯をフライトモードにすれば写真を使って良いと言うことを知らず、何も写真を撮っていない。その時は飛行機の中で携帯を使えば、真っ逆さまなんだと思っていた。でも、実際はそうでもないらしい。
さて無事到着。
入国審査です。
これでも一つトラブル。
キューバは保険とビザがなければ入国することができないのです。ビザはすでにキューバ大使館から取得済み、保険は旅行代理店のものでもOKだと言うので、それを用意していました。
でも、どうやらその保険を理解してくれない。
もちろん、日本語以外に英語で書いてあるのですがダメ。一向に通してくれません。果てはシッシッと追い返される始末。
追い返されたので、一応は戻りますが、戻って見てもどうすることもできません。だって戻ったところで出口があるわけではないのです。
前にも後ろにも進めない。
も一回行くしかないと思い、今度は別の入国審査官がいるところへ。
すると今度はあっさり入ることができました。
いや、マジでなんだったんだ。最初の。
で、この後もベルトコンベアーで待っていても一向に荷物が出てこなかったりと色々ありながらも、なんとか無事に入国。
予定では、夜中に着くので、この日はじっとして空港で寝て明日から行動しよう。
と思っていたのです。
でもいざ、着くと、見渡す限りの黒人デカイ男、男、男。
その光景は貧乏チェリパッカーをビビらせるには十分過ぎるほどお光景です。しかも入国審査で戸惑ってションベンがちょちょぎれていた僕にとってはこの黒くてでかい男の集団はあまりにも怖いのです。
多分、スカウターで見たらでかい黒人男性さんは戦闘力53万なのに対して僕は戦闘力5です。だいたいフリーザと農民との違いがあります。
しかも、少し見ていてわかったのだけれど、彼らは特にどこかから帰ってきたとか、どこかへ行くために空港にいるのではなく、空港の周りでだべっているだけのよう。
雰囲気は日本の場末のパブ。いや場末のパブに行ったことなんてないのだけれど、多分そんな感じ。
空港に着いたつもりが、いきなりその国の場末のパブに置かれたらたまったものじゃない。
もちろん、これは僕が感じただけで、ベテランバックパッカーから見たら全くそんなことはないのだと思う。でもなんども言うように、僕は貧乏チェリパッカーなので、感じることといえば「恐怖」でしかないわけです。
そんなわけで、宿に向かうことにします。急いで両替所(これもわかりづらかった。。。)に行ってお金を変えてもらいタクシーで宿に向かいます。
なんとかハバナ市内の宿に着き、夜なのに入れてもらい。ことなきを得ました。
宿からの景色はこんな感じ。
ふう。。。
一人で落ち着きやっとこ深呼吸。
入国審査や両替所で感じたのは、英語が(当たり前といえばそうなのだけれど、)通じそうなところでも通じない。通じたとしても向こうの英語の発音が癖がありすぎていてなんだかよくわからない。パスポートがパスポルテ。なんだしパスポルテって。
そんなわけでやっとこ貧乏チェリパッカーがたどり着いた第一やは不安な夜となりました。
とりあえずは今日はここまで。
まだまだ続きます。
ちゃんちゃん。