『<民主>と<愛国>』小熊英二
小熊英二の『<民主>と<愛国>』を読んでいて気になる文があった。
すなわち日本社会では「自由なる主体的認識」を持った個人が確立されておらず、そのため内発的責任意識がない。そこでは権力者さえもが、責任意識を欠いた「陛下の下僕」あるいは「下僚のロボット」でしかないという、「無責任の体系」が支配する。それと同時に、上位者から加えられた抑圧を会社に向かって発散するという、「抑圧移譲」が各所で発生する。そしてそれが国際関係に投影されたのが、欧米帝国主義からの圧迫を、アジアの侵略で晴らすという行為だったというのである。
これは戦後すぐの時代の社会学者丸山眞男の思想について本書の筆者が考察した文で、太平洋戦争を引き起こし、戦後も責任転嫁し続ける日本の支配層を批判したものだ。
でも、もしこの文の最後
そしてそれが国際関係に投影されたのが、欧米帝国主義からの圧迫を、アジアの侵略で晴らすという行為だったというのである。
という文章がなければこれは今現在の問題について書かれていると考える人が多いのではないだろうか?
特にキーとなるのが「無責任の体系」と「抑圧移譲」だ。
では戦後に反省されたこの二つのことは改善されたのだろうか??
実際は今現在として「無責任の体系」と「抑圧移譲」は何も政治だけではなく、仕事や労働、学校、家庭で起きていることだろうと思う。
私は長く暮らしたのは日本しかないから外国と比べることはできない。
とりあえずここで考えておきたいのは、戦後本来反省されるべきであったこうしたことが今現在も全く改善していないということだ。
「無責任の体系」「抑圧移譲」だけではなく、どのようにして戦争につながるような国の体制が成立し、どのように動かされていたのか。それは戦後多くの学問や民間問わず検証されてきた。
だが、それが改善されることはなく、形や場所を多少変化させながら行なわれている。
私ももちろん「無責任の体系」と「抑圧移譲」に加担している場面や、自分自身がそうだったことはあったろうと思うので反省しなければならない。
戦争には絶対に反対という意見もある。もちろんそうなのだけれど、今現在でもその意見にはどこか現実離れをしたことのように私には響く。
戦争だって実際に戦争になればそれは「有事」とか「共栄圏の維持」とか「平和」と言って必ずしも「戦争」という言葉を当てはめない。全く新しい言葉で今でいう戦争の意味を持つ行為が定義されるかもしれない。
それ以前に私たち(少なくとも私の世代)は戦争というものが(ありがたいことに)どういうものなのかよく知らない。だから、果たしてそれが実際に起きても戦争なのか、それとも違うのか理解できないと思う。
戦後の社会学的検証は戦争という結果を導くにいたった社会の有り様を反省することに重きを置いていたのではないかと、この本を読みながら思っている。
戦争をしたという結果以上に、戦争をする国を作ったことを私たちは反省すべきだったのかもしれない。
だとすると今、その原因となった部分を改善することは大きな意味を持っているように思う。
だからただただ「憲法を守れ」とか「戦争反対」とか「ファシズム反対」と言ってもある一定数の熱い人以上には広がらないのではないだろうか。だから戦後社会の精神構造の欠陥点を改善することに大きな意味がある気がする。
まあもう遅いかもしれないけれど。
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